2018年1月6日土曜日

大正時代生まれの父と母のこと

父親のこと、昨日の続きです。母親のことも。


ソ連抑留から帰った父は、祖父の代からの家業のー野鍛冶というもので、刀鍛冶とは違い、所謂村の「鍛冶屋」ーをやっていましたが、時代の流れとともに、個人家業の農具の「鍛冶屋」は成り立ちにくくなり、昭和30年頃から、鉄工所に勤めることになりました。


この「鍛冶屋」の最後の頃を、5歳位だった私は、覚えています。
1歳の妹を育てながら、コークスの火の熱の中で両親が働いていました。


鉄工所と鍛冶屋の違いは、火を使うか使わないということです。
鍛冶屋はその名の通り鍛造で、高温の火を使います。
どちらも職人の世界ですね。


鉄工所に勤めていたころの父親は、3人の子供が高校を卒業するまで、休みもなく働いてくれました。
これには今でも感謝しています。


職人であった父は、力も強く気が短い性格だったようで、小さいときは、いたずら坊主の私は、良く叩かれていたものでした。

ところがある日、中学生の私は父のそばにいました。
父が新聞をとろうと手を挙げた時、私は無意識に反射的に手で防御の姿勢をとりました。


いつも頭を叩かれていたので、反射的な行動だったんですね。
中学生ながら、とても気まずい思いがしましたが、父は何を思ったのでしょうか?


その日以後、1度も父から叩かれることはありませんでした。
もう55年前のことなのですが、このことはいつも思い出されます。
今思えば、この日から少し大人になった気がします。


子供の頃から、父は家にいる時間が少なく、私は18歳で家を出たので、父と接する時間は少なかったので、この日のことが思い出されるのですが、何となく甘酸っぱい思い出です。


その父は75歳で亡くなりました。
まあ平均寿命位だったのですが、晩年は病気との闘いでしたね。


父より3歳年下の母親は、その後79歳で亡くなりましたが、どちらも遥か昔のような気がしています。


そして私も、両親の亡くなった年齢にどんどん近づいて来ています。
両親に会える? 日もそう遠くでは無いかもしれません。


正月早々の話題としては、そぐわないと思われる方もおられるかも知れないですが、



一休禅師の歌に、

門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

というものがありますが、このような心境でもあります。



朝 珈琲、牛乳、トマトジュース パン少し

昼 手製ラーメン

夜 まだ残っているカレー 

食事はマンネリ化しています



今日も読んでいただきましてありがとうございます。